2008年10月5日日曜日

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2008年7月30日水曜日

あとがき

あとがき 

 私は、幾多の厳しい局面で、音楽を聴いて心を静め重要な決断を下してきました。苦しい時には、小鳥たちの小さな命の躍動を目にすることで、どのくらい勇気づけられたことでしょう。私は音楽と小鳥の近くに居続ける事ができて幸せでした。だから、できるだけ多くの人に、音楽とそして小鳥と親密になっていただきたいと切に思います。 

日本野鳥の会などを通じて私は自然保護に深い関心を寄せている人達に接する機会は多いのですが、自然を愛する人達でも、同時に音楽に関心を持っている人は決して多くないことも分かってきていました。また、音楽を職業とする友人や音楽を聴くことに喜びを感じている友人も少なくないのですが、その人達の中に、小鳥が好きだという人がほとんどいないことも分かってきていました。 私の趣味を他人に押しつけるつもりは毛頭ありませんが、小鳥と音楽とはごくごく近いところにあって、気がつきさえすれば、全く同じ感性で受け入れることができるはずですので、私は、音楽が好きな人には小鳥も、小鳥が好きな人には音楽も好きになって貰えるような、道案内の役割を果たせるようなエッセイを書いてみたいと考えていました。これでその役割が果たせたか否かは全く分りませんが、読んで下さった方の中に、一人でも音楽を聴いてみよう、バード・ウォッチングに参加してみようと、改めて思って下さった方が居られたら本当に嬉しく思います。 

当然の事ながら、もれてしまっている「鳥の曲」はまだまだ沢山あります。でも全部を拾いだす事が目的ではないので、鳥たちもきっと許してくれるでしょう。もし彼らからの抗議の声が大きいようでしたら、改めてそれらの鳥たちのために稿をおこすことに致したいと思います。 

第九章 日本の作曲家と鳥たち

第九章 日本の作曲家と鳥たち 


団伊玖磨  歌劇「夕鶴」 

「夕鶴」は日本の民話「鶴の恩がえし」をもとに、劇作家木下順二が新しい視点に立って一九四八年に戯曲化したもので、芝居は山本安英とぶどうの会の最重要レパートリーとなり、繰り返し繰り返し何度も上演されました。主人公の鶴の化身つうは、初演以来一貫して山本安英によって演じられました。山本安英のつうは、まさに鶴の化身そのもので、杉村春子の「女の一生」のけいと共に新劇史に残る最高の当り役となりました。 

この戯曲の素晴らしいところは、鶴が助けてくれた人に恩を返すというだけの民話のストーリーにとどまらず、鶴自身が自ら幸福な世界を作りたいと願い、自分の羽根を抜いて錦を織りますが、その献身的行為自体が、自分の希望とは全く逆に、男に自分から離れて行く動機を提供することになってしまうという矛盾、幸福を願って追求して行く行為そのものが、幸福を破壊する要素となって蓄積されてゆく矛盾を見事に描き出しているところです。 

歌劇「夕鶴」も木下順二の台本によっています。作曲者の団伊玖磨からオペラ化の話が持ち込まれた時、了承するにあたって木下順二の出した条件は、せりふを一語も変更しないこと、というものでした。この脚本では、鶴の化身つうは標準語を話し、その夫である与ひょうが非標準語を話しますが、この設定が鶴の世界と人間の世界の断絶を示唆していて、人間である夫の与ひょうと、妻である鶴のつうとの会話は、二人が共通の世界にある時以外には成立しません。与ひょうが共通の世界を離れると、つうの言葉は彼には通じなくなってしまうのです。このように言葉自体が重要な役割を担っている戯曲であってみれば、原作者がせりふを一語も変えないことという条件をつけたのも誠にもっともなことと納得できます。 

オペラに方言を持ち込むという難問を、団伊玖磨は見事にクリアーしました。「夕鶴」は日本オペラの傑作といえます。山本安英のつうが観られなくなった今、演劇の「夕鶴」は観る機会が少なくなってしまいましたが、オペラ「夕鶴」はますますその評価を高め、日本のみならず海外でも上演されるようになっていると聞きます。ただ、あれほど言葉にこだわった木下順二の台本が、例えばドイツ語に翻訳されたときにどのように響くのだろうかといささか心配ではあります。 

テレビで、ツルが群れをなしてヒマラヤ山脈越えをする雄壮な光景をご覧になった方は多いと思います。あの、アネハズル Anthropoides virgo は日本にはほとんどやって来ませんが、六月頃、時折り旅鳥として通るのを見かけることが無いわけではありません。 

日本の代表的なツルであるタンチョウには、日本のツルという意味の学名 Grus japonensis がつけられていますが、Nipponia nippon という「日本」を学名にいただく朱鷺のように、このタンチョウも一時絶滅の危機に瀕したことのある鳥です。現在では釧路湿原を中心に、北海道の東部で数百羽のタンチョウが確認されていますが、大正時代には乱獲の結果十数羽にまで激減してしまった時期があったということです。幸い、関係者の懸命な保護活動のおかげで現在の固体数にまで回復しました。しかし、これらの数百羽の大半は、人為的な給餌のもとでかろうじて生命を持続させている半野鳥で、彼らには最早自力で生きてゆけるだけの自然環境は残されていないのです。 


武満徹 「鳥は星形の庭に降りる」      

一九九六年二月に武満徹が亡くなりました。六五才でした。元来あまり身体の丈夫な人ではなかったようですが、それでもなお、武満の死は、人々にそれが突然訪れて来たような印象を強く与えました。彼は世界各地の音楽団体から委嘱を受けて沢山の優れた作品を生みだし、重要な国際賞も数多く受賞しています。もちろん日本でも武満徹の名前はよく知られていますが、作品は日本よりもむしろ海外の方で高く評価されていたと言えるのではないでしょうか。真の意味で日本が世界に誇れる作曲家でした。最後に受賞したのは、死の二週間前に発表になったグレン・グールド国際音楽賞でした。  

世界で最初に武満徹の作品に高い評価を与えた人がストラヴィンスキーであったことは良く知られています。武満の最も初期の作品「弦楽のためのレクイエム」は、それが発表された時(一九五七年)には音楽以前とまで酷評され、武満も作曲家になることを断念しようかと考えたそうです。その後、来日したストラヴィンスキーが、何人かの無名作曲家の作品を聴いた後で、武満の「弦楽のためのレクイエム」を「誠実な、そしてとても厳しい音楽だ」と称賛し、作曲者との面会を強く希望致しました。面会後、ストラヴィンスキーは「タケミツは背が小さいからいい作曲家だ」と言ったそうです。ストラヴィンスキー自身もあまり大きな人ではありませんでした。小澤征爾は「弦楽のためのレクイエム」を欧米各地で演奏し、積極的にこの曲の紹介に努力しました。今でこそ武満の初期の傑作といわれている「弦楽のためのレクイエム」が、傑作としての道を歩み初めた頃のエピソードです。 

「鳥は星形の庭に降りる」は、鳥たちの群れが日本庭園に降りる夢に触発されて作曲された、武満四七才、一九七七年の作品です。サンフランシスコ交響楽団の委嘱に応えて作曲した関係で、武満が付けた曲名は、英語で A Flock Descends into the Pentagonal Garden というものでした。つまり、日本人の作曲家の作品ながら、この作品の日本語の題名は、英語の原題名の翻訳なのです。そのため、時には「鳥は星の庭に降りる」とか、「鳥の群れは五角形の庭に降りる」とか呼ばれることもあるようです。アメリカ国防省の建物が空から見ると五角形であるところから通称ペンタゴンと呼ばれていますが、この曲の名前の中の、ペンタゴナル・ガーデンも、文字面を訳せば五角形の庭ということにはなります。そしてもう少し詩的イマジネーションを働かせれば、星形の庭ということにもなります。しかし、ここでは庭の形はあまり大した問題ではありません。キーは五という数値です。武満は、それを『曲は「5」と言う数を構造の基礎としている。ことに、それは音程関係において顕著である。曲の基本となる音列は、Fシャープを中心とするPentatonic Scale(五音音階)から導かれた五種の旋法と、その各々にスーパーインポーズされる、音程関係を固定した五種のPentatonic Scaleから成っている。』と説明しています。鳥の群れのモチーフはオーボエによって演奏されます。 

武満徹にはもう一曲「鳥が道に降りてきた」と言う題名の、ヴィオラとピアノの為の小品もあります。この曲の英語名は A Bird Came Down the Walk で、ここでは鳥は一羽です。「鳥は星形の庭に降りる」「鳥が道に降りてきた」と言う日本語の題名からは、片方は鳥の群れで、片方は一羽の鳥であるとは即断できません。それでも日本人は格別不便は感じません。言葉の曖昧さにすら「美」を感じることのできるのは日本人だけの特技なのかも知れません。今や俳句は日本だけのものではなくなっていますが、それでも「古池や蛙とびこむ水の音」は、蛙が一匹なのか数匹なのかが不明なため英訳することは不可能だというような議論を聞くと、「日本人なら、誰でも一匹だとわかるのだけどなー。数匹だったら、漫画にはなっても俳句にはならないよなー」と思ってしまいます。 


吉松隆 「朱鷺に寄せる哀歌」     
    「鳥たちの時代」     
    「鳥と虹によせる雅歌」      

現代日本の中堅作曲家である吉松隆と言う人は、鳥に対して、いや生態系全体に対して、地球全体に対して強い関心を持っている人と思われます。この作曲家が作曲した一連の作品を聴けば誰しもがそう思うでしょう。吉松隆には「朱鷺に寄せる哀歌」、「チカプ」、「鳥たちの時代」、「デジタルバード組曲」、「鳥の形をした四つの小品」、「ランダムバード変奏曲」、「鳥と虹によせる雅歌」、というように、鳥を主題にした沢山の作品がありますが、中でも日本の絶滅種、朱鷺を主題にした「朱鷺に寄せる哀歌」は彼の初期の代表作であると同時に、傑作といえる作品です。 

「朱鷺に寄せる哀歌」(一九八〇年)は弦楽オーケストラとピアノの為のもので、演奏に際しては、中央のピアノを挟んで左右に弦楽器が配置されます。そしてピアノの奥にはコントラバスが置かれます。このようにして、弦楽器の翼、ピアノの胴、コントラバスの尾、そして指揮者の頭を持った鳥の形が形成されます。 

トキの学名は Nipponia nippon と言います。日本を学名に持つこの鳥は、一九二〇年代の終り頃までは、佐渡の小佐渡丘陵を中心に多数生息していた鳥ですが、美しいが故に人に捕獲され続けた上に、一九五〇年代以降は、水田への農薬散布が原因でドジョウや蛙が激減、餌を奪われたトキも急速その数を減少させて行きました。しかし一九六七年に佐渡トキ保護センターが設立されるまでは、トキの保護はその急激な減少に危機感を抱いた自然愛好家達の手で細々と行なわれていたに過ぎませんでした。佐渡トキ保護センターの設立は、絶滅から救う為にトキの保護が焦眉の急務であることを国民に知らせる意味では効果はあったものの、イタイイタイ病や、阿賀野川水銀中毒の原因となった工場排水問題、あるいは各地で起こされたぜんそく患者の訴訟に象徴される大気汚染公害等々、環境破壊による生命の危機はすでに人間にまでおよび始めていて、最早トキの保護だけにかかわることが不可能な段階に入ってしまっていました。一九七一年には環境庁が新設され、国として環境保全に注力する体制が作られました。しかし積極的環境破壊論とすら言える列島改造論を旗印に押し進められた高度経済成長政策と、環境保全とを両立させることなど可能な筈もありませんでした。この間にもトキは確実にその数を減らし続け、一九八〇年には、ついにたったの五羽を残すのみとなってしまいました。最早自然増殖は望むべくも無く、翌年の一月、佐渡にいた最後の五羽が人口増殖の目的で捕獲され、野生のトキは日本には一羽もいなくなりました。 

『 美しいものが滅び、むごいものたちが生きのびる。それは確かに自然の摂理かも知れない。しかし、ただ美しいだけのものが駆逐され滅びてしまうのを何と弁解しつつ私達は朱鷺のいない未来を生きて行くのだろう?  この曲は最後の朱鷺たちに捧げられる。ただし、滅びゆくものたちへの哀悼の歌としてではなく、美しい鳥たちのトナリティ(調性)との復活における頌歌として。  そして人間がいつの日か滅びる時、美しい生き物が滅びてしまった、と涙してくれるものはいるのだろうか?という呟きのような問いを添えて。 』(注1) 

これは作曲者吉松隆自身の言葉です。美しいが故に滅びていった、トキへの切々たる哀悼の思いが伝わって来ます。絶滅して行くトキに私たちは何もできませんでした。絶滅に加担したという思いだけが残ります。ニッポニア・ニッポンの棲んでいた国の日本人としては、トキよ、復活してどうかもう一度お前が大空を舞う姿を見せてくれ、と祈らずにはいられません。 

望みはまだ残されています。一九八一年に、既に日本以外の地域にはいないと考えられていたトキが中国の陝西(シェンシー)で発見されました。それも、絶滅から救うことが可能かもしれない固体数の発見でした。直ちに中国政府による「種の保全」の施策が実行に移されました。佐渡トキ保護センターでは、一九九四年以降三回にわたり中国のトキを借り受け、日本に残された最後の五羽との交配を試みましたが人工孵化にまでこぎつけることはできませんでした。日本のトキはすでに老齢に達してしまっていたのです。一九九八年十一月、中国の江沢民国家主席が来日し、皇居宮殿での天皇皇后両陛下との会見の席で、お土産として若いトキのつがいを贈りたいと申し出ました。この時点で佐渡トキ保護センターに残っていたのは、推定年齢三十二才の、足元もおぼつかない「キン」と名付けられた最後の一羽のみでした。 

日中友好のシンボル、雌の洋洋(ヤンヤン)と雄の友友(ヨウヨウ)は、共に中国陝西省洋県のトキ救護飼育センターで生まれた鳥で、一九九九年一月の末、育ての親である若くて美しい席咏梅(シイ・ヨンメイ)さんに伴われて佐渡トキ保護センターにやって来ました。産卵期を間近にひかえての長旅であったにもかかわらず、二羽からは順調に次の世代の命を宿した卵が生まれ、五月の下旬にはその中の一つから待望の雛が誕生しました。一九八一年に人工繁殖を試み始めてから実に十八年、日本での初めての人工孵化によるトキの誕生でした。トキの人工繁殖は中国ではすでに北京動物園とトキ救護飼育センターで行なわれていましたが、それに新たに日本の佐渡トキ保護センターが加わったことになります。種の絶滅と言う最悪の事態は避けられるかも知れません。希望はつながりました。来日してトキの孵化を指導した席咏梅さんが言う通り、「自然の中で自立させるには人間の力がもっと必要」であるに違いありません。トキをここまで追い込んだのが人間である以上、彼らが再び自然の中で自由に翔び回ることが出来るようになるまで、可能な限りの援助を続ける努力を惜しんではなりません。それは人間の責務でもあります。 

[中国から贈られてきた二羽のトキは、佐渡のトキ保護センターで順調に子孫をふやし、二〇〇八年九月二五日、その中の十羽が、試験的に佐渡の空に放たれました。実に二七年ぶりにケージの中ではない、自然の空に、日本の空にトキが舞いました。とは言え、トキが生きてゆくための環境は絶滅の頃にもまして厳しいものになっていますので、本格的な野生復帰が可能なのか否かの判断はまだまだ先のことになります。2008-10著者注]

「鳥たちの時代」は日本フィルハーモニー交響楽団の委嘱により一九八六年に作曲されました。 

吉松は、自分自身がそれなりに納得できる作品が書けたと自覚できた時期になって、突如、彼が親しみ馴染んできた西洋音楽の美しさを解体した「現代音楽」なるものに、許しがたい憤りを感じるようになったと言います。『音楽の美しさと楽しさを破壊し、作る側と聴く側との交感を断ち、同じ時代に生きる才能ある青年から音楽を生み出す意欲を奪った「現代音楽」』(注 )を憎むようになった彼は、現代音楽という混沌の森から飛び立つための新しい翼を模索する時期、「鳥の時代」、を持つことを自分に課しました。そしてこの時期に、彼は鳥をテーマにした作品を作り続けたのです。この「鳥たちの時代」は、そのような時期に作られ、「朱鷺によせる哀歌」「チカプ」に続く〈鳥の三部作〉の最後の作品となりました。 

曲は、1. SKY〈空が鳥たちに与えるもの〉、 2. TREE〈樹が鳥たちと語ること〉、 3. THE SUN〈太陽が鳥たちに贈るもの〉、の三つの部分から成り立っています。一九八六年五月、井上道義の指揮で、日本フィルハーモニー交響楽団により初演されました。 


「鳥と虹によせる雅歌」(一九九四年)は、若くして、ガンに生命を奪われた二才年下の妹に捧げられた曲です。曲のイメージは、作曲者自身の解説によれば、『空にかかった七色の虹の中に、鳥たちが飛び交い、その鳥たちの瞳の中に七色の虹が夢のように映っている・・・・空の端から静かに鳴き始め、虹の中でひたすら空を賛えて鳴き続け、また空の彼方に消えてゆく、虹のような鳥の歌だった。』(注3)というものです。病気の妹が、空の見えない狭い病室のベッドで、「空を見たい」とささやき、「今度生まれるときは鳥になりたい」と言い残して生を終えたとき、吉松は、この虹の中の鳥のイメージを思い起こしていたと言っています。 

この曲は岡山シンフォニーホールからの委嘱に応えたもので、作曲は一九九三年冬より九四年春にかけて進められ、五月末に完成しました。そして一九九四年九月二五日、田中良和指揮の岡山フィルによって初演されました。『この作品は、亡き妹に捧げられる。ただし、鎮魂歌としてではなく、天上で鳥たちと虹に囲まれて戯れている魂によせる雅歌として。』(注4)これも作曲者の言葉です。 

吉松には、交響曲第二番「地球(テラ)」にて、という、かなり大掛かりな作品(一九九一年)があります。絵葉書の最後に、軽井沢にて、とか、パリにて、とか書くのと同じような意味で、ここでは「地球(テラ)」にて、という言い方が使われています。アジア、ヨーロッパ、アフリカという地球各地の音の素材を使って、難破寸前の宇宙船「地球号」からの悲鳴にも似た発信がなされていて、地球にて、と言う題名には説得力があります。しかし、作曲者は希望を捨ててはいません。挽歌、鎮魂歌、雅歌の三つの部分からなるこの曲は、はじめの二曲は「挽歌」と「死者のためのミサ曲」ですが、最後の南からの雅歌では、アフリカ風のリズムの上に、アレルヤの歌声が次第次第に増幅されて行き、地球の未来が決して絶望的なものでないことを示唆してくれています。 

私はこの作曲家の強靱な魂を賞賛します。その思想に共感を覚えます。このような音楽を作る、吉松隆という作曲家の真摯な姿勢に称賛の拍手を贈りつつ、見守り続けて行きたいと思っています。











(注1、2)吉松隆「朱鷺によせる哀歌」プログラム・ノート、 カメラータCD
       25CM-178-9 より転記
(注3、4)日本フィルハーモニー交響楽団第491回定期演奏会プログラムより

第八章 メシアンと鳥たち

第八章 オリビエ・メシアンと鳥たち 

かつて、どこかで、メシアンは鳥類学者でもあったと言う解説を読んだ事がありますが、私が調べた限りではそれを裏付けるような資料は見当たりません。メシアンの著書「リズムの特徴(Traite` du rythme)」の中に「自分は ornithologue(鳥類学者)であり、rythmicien (リズミシャン)である」という記述がありますが、この ornithologue は日頃から鳥を愛し、鳥の生態や鳴き声について、詩的観点からのみならず、科学的観点からもつぶさに観察・研究している人物、という程度に解すべきで、鳥類について専門的研究をしたとか、論文を書いたとかいう意味での鳥類学者とは違うように思います。しかし、幼少の頃から鳥を愛し小鳥の歌声に魅せられていたことだけは確かなようです。 

鳥の声を歌ととらえ、美しい響きと感じて音楽の中に取り入れた作曲家は少なくありませんが、オリビエ・メシアンほど、積極的に鳥のさえずりを自分の音楽に同化させる事に力をつくした作曲家を私は他に知りません。 

メシアンは大戦後間もなく、ミュージック・コンクレートによる音楽の探求に足を踏み入れました。ミュージック・コンクレートとは、具体音楽とでも訳すのでしょうか。電気音響機器だけで音楽を作り出す電子音楽に始まって、存在するあらゆる音を素材として録音し、そのテープを自由に加工して、五線譜に記述し得ない形の音楽を創造しようとする方向に発展して行った前衛的な音楽です(と私流の解釈をしています)。しかし、幾つかのミュージック・コンクレートによる創作を試みた後に、メシアンはこの前衛音楽の向かう先を不毛なものとみなし、楽器及び演奏者によって演奏される伝統的な音楽を作曲する方向に戻って行きました。この重要な方向転換を助けたのが鳥たちの歌声だったのです。 

『すべてがだめになり、道を失い、なにひとつ言うべきものをもたないとき、いかなる先人に習えばよいのか。深淵から抜け出るためにいかなるデーモンに呼び掛けるべきなのか。相対立する多くの流派、新旧の様式、矛盾する音楽語法があるのに、絶望している者に信頼を取り戻す人間的な音楽がない。この時にこそ大自然の声がくるべきなのである。・・私についていえば、鳥に興味をもってその歌を採譜するためにフランス中を歩いている。バルトークが民謡を求めてハンガリー中を歩いたように。これは大変な仕事である。しかし、それは私に再び音楽家である権利を与えた。技術とリズムと霊感とを鳥の歌によって再発見すること。それが私の歴史であった』(注1)これは、一九五八年に、メシアンがブリュッセルの万国博覧会での講演で語った言葉です。 

彼は野外で熱心に小鳥のさえずりを聞き、それを譜面に書きとめました。そして集められた歌声は、必要に応じて速度が変えられ、キーが変えられ、音程が広げられというように、人間の尺度に合うような形に変えられて彼の音楽の中に取り入れられていったのです。 

一九五八年に、足掛け二年をかけて完成されたピアノ曲集「鳥のカタログ」は、メシアンが目指した鳥の歌声と音楽との融合が、最も鮮明な形で具現化された作品と言えます。しかし、メシアンが、それ以前からずっと鳥の声を彼の作曲上のボキャブラリーの一つとして重要視していたことは、その二〇年以上も前から、鳥の歌声がすでに彼の音楽の中で重要な役割を演じている事からも明かです。例えばこの作曲家の初期の作品であるオルガンのための「主の降誕」(一九三五年)にはすでに鳥の声が採用されています。そして第二次大戦中、ドイツ軍の捕虜となってシレジアのキャンプに収容されていた時に作曲した「世の終わりの為の四重奏曲」(一九四一年初演)にも、クロウタドリのさえずりが取り入れられていて、この例はメシアンの一九四四年の著作である "Technique de mon langage musical" (「わが音楽語法」平尾貴四郎訳)の中で彼自身が引用しています。更に、一九四三年の「アーメンの幻影」、一九四四年の「神の存在の三つの小典礼」、「幼子イエスに注がれる二〇のまなざし」、一九四六年の「トゥーランガリラ交響曲」等の作品にはすべて小鳥達の声が織り込まれていて、一九五〇年以降に登場する「クロツグミ」(一九五二年)、「鳥たちの目覚め」(一九五三年初演)、「異国の鳥たち」(一九五六年初演)、「鳥のカタログ」(一九五八年)というような鳥たちが主役の音楽が数多く生み出される基盤は、長い年月をかけて着実に構築されて来ていたのです。 

フルートとピアノのための「クロツグミ」と、ピアノとオーケストラのための「鳥たちの目覚め」は、鳥の歌声が主役の作品で、一九五六年に作曲にとりかかる事になる「鳥のカタログ」のさきがけの役割をはたした作品です。特に「鳥たちの目覚め」は、それ以前の作品では鳥の声は単にその輪郭と旋律的なフィギュレーションが描かれたにすぎなかったのですが、ここでは複数の鳥の声が初めて和声的な手法を使って再現され、鳥の歌声だけで音楽が構成された最初の作品となりました。「異国の鳥たち」は、ピアノ、二つの管楽器、サキソフォーン、グロッケンシュピール、打楽器という面白い楽器群のための音楽で、インド、中国、マレーシア、カナリー諸島、南北アメリカという異なる地域の、自然界では決して出会う事の無い多数の鳥たちを一つの曲の中に招待し共存させています。これも曲全体が鳥の声だけで構成されていて、鳥たちの饗宴がギリシャとインドのリズムに乗って展開されて行きます。そして、ついにピアノだけのための「鳥のカタログ」が登場します。メシアンによれば、音域の広さ、素早いアタック、急速なテンポや音の移動という点で、ある種の鳥たちが発揮する歌の妙技に挑戦可能な楽器はピアノしか無いということなので、ここに登場する多彩な鳥たちを表現するためには、「鳥のカタログ」はピアノ曲とするしかなかったのでしょう。 

「鳥のカタログ」は、キバシガラス(Pyrrhocorax graculus)、ニシコウライウグイス(注2)(Oriolus oriolus)、イソヒヨドリ(Monticola solitarius)、カオグロサバクヒタキ(注3)(Oenanthe hispanica)、モリフクロウ(Strix aluco)、モリヒバリ(Lullula arborea)、ヨーロッパヨシキリ(Acrocephalus scirpaceus)、ヒメコウテンシ(Calandrella brachydactyla)、ヨーロッパウグイス(Cettia cetti)、コシジロイソヒヨドリ(Monticola saxatilis)、ノスリ(Buteo buteo)、クロサバクヒタキ(Oenanthe leucura)、ダイシャクシギ(Numenius arquata)という鳥の名前がつけられた一三曲からなるピアノ曲集ですが、登場する鳥の種類は実に七七種類にものぼります。タイトルの鳥と、その他のどんな鳥がどんな状態で参加しているのかを知るには、メシアン自身が一曲毎につけている解説を参照すのが一番ですが、自らの想像力を思う存分働かせつつ、曲だけを聴いていても十二分に楽しめる事請け合いです。題名に使われた鳥のうちで日本にいる鳥は、三曲目のイソヒヨドリ、一一曲目のノスリ、そして最後の曲のダイシャクシギだけです。ダイシャクシギは冬の間だけ、または渡りの途中に立ち寄るだけで、常時いるわけではありません。その他の鳥では、ヒメコウテンシ、コシジロイソヒヨドリ、クロサバクヒタキ、等がまれに迷鳥として確認される程度です。 

この曲集には含められませんでしたが、全く同列の作品で、もう一曲「ニワムシクイ」(Sylvia borin)と言う名前のピアノ曲があります。あるいは「鳥のカタログーその二」を作るつもりがあったのかも知れません。 

「鳥のカタログ」はモデルになった鳥たちと、ピアニストのイヴォンヌ・ロリオに献呈され、一九五九年、ピエール・ブーレーズの率いるドメーヌ・ミュジカルの演奏会の一環として、イヴォンヌ・ロリオの演奏でその初演が行なわれました。イヴォンヌ・ロリオは一九四三年の「アーメンの幻影」以降、メシアンのほとんど全てのピアノ曲、及びピアノを含む作品の初演でピアノ演奏を受け持ったピアニストで、一九六一年にメシアンと結婚しています。 

オリヴィエ・メシアンを日本に紹介するという面で、力をつくした日本人の音楽家として、私は小澤征爾と武満徹の二人の名前をあげたいと思います。メシアンを親日家とする上でも、この二人は大きな貢献をしています。 

小澤征爾は、今やボストン交響楽団の小澤、サイトウ・キネン・オーケストラの小澤、そしてウィーン国立歌劇場の小澤、そして世界の小澤として揺るぎない名声を確立しておりますが、小澤の名前を「N響事件」と切り離して考えることが出来ないクラシック音楽ファンも少なくないと思います。しかし、そのNHK交響楽団の団員による小澤ボイコットの発端になったのが、一九六二年七月の小澤・N響のコンビによる、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の日本初演であったことはあまり知られていないのではないでしょうか。小澤征爾は早くからメシアンの音楽に強い関心を寄せており、メシアンも小澤征爾の卓越した音楽解析能力を高く評価しておりました。この作曲家が残した唯一のオペラ「アッシジの聖フランソワ」は上演に六時間を要する超大作ですが、一九八三年、パリ・オペラ座に於ける初演を指揮したのは小澤征爾でした。メシアンは作曲中からこのオペラの初演を小澤に任すことを決めており、ピアノ・スコアが出来た段階で、小澤にもそれを見せて初演を依頼しておりました。 

小澤征爾がN響とのトラブルで苦しんでいた頃、芸術家や文化人のグループが、激励の意味を含めて「小澤征爾の音楽を聞く会」を開催しましたが、そのグループの一人に武満徹の名前があったところからも、武満も早くから小澤の才能を高く評価していたことが伺えます。その後急速に力を付けていった小澤は、一九六七年、ニューヨーク・フィルの創立一二五周年記念委嘱作品である、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」の初演を指揮致しました。オーケストラはもちろん、ニューヨーク・フィルハーモニックでしたが、その直後に、二年前から自分が音楽監督の任に当たっていたトロント交響楽団を使って同曲の録音も行なっています。この「ノヴェンバー・ステップス」の録音は、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」とカップリングされ、RCАビクターからレコードとなって発売されました。小澤征爾の最初期のレコードの一つです。 

武満徹は、日本に最初にメシアンを紹介した一人でした。彼は一九五一年に仲間の音楽家や画家達を集めて「実験工房」と称する芸術家集団を結成しましたが、その実験工房の活動の一環として、メシアンの室内楽を積極的に取り上げていました。従って、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」にも早くから強い関心を寄せていました。「世の終わりのための四重奏曲」は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、クラリネットという、特殊な楽器構成のアンサンブルのために書かれた作品ですが、ピーター・ゼルキンは、彼が新進ピアニストとして登場して間もない頃、クラリネットのリチャード・ストルツマン等と共に、この「世の終わりのための四重奏曲」を演奏することを目的として「アンサンブル・タッシ」を組織しました。ピーター・ゼルキンと親交のあった武満徹は、アンサンブル・タッシの資質に惚れ込み、自分もこの特殊編成のアンサンブルのための曲を作りたいと考えていました。一九七五年、FM東京から、TDKオリジナル・コンサート放送二〇〇回記念作品の作曲依頼を受けたのを機に、武満はこの考えを実行に移すことに致しました。作曲に取り掛かる前に彼はニューヨークへ行き、タッシのメンバーと一緒に「世の終わりのための四重奏曲」についてメシアンから直接レッスンを受けています。その時、武満はメシアンに、自分もタッシの起用を念頭に同じ編成の四重奏団とオーケストラのための曲を作る計画を持っていることを話し、メシアンから激励の言葉を受けております。そして「カトレーン」が生まれました。計画通りタッシの参加を得て行なわれた「カトレーン」の初演を指揮したのも小澤征爾でした。オーケストラは新日本フィルハーモニーでした。 

メシアンは何度か日本にも来ていますが、一九六二年の訪日のあと、その印象をピアノと一三の管楽器、シロフォン、マリンバ、四つの打楽器、そして八つのヴァイオリンのための、「七つの俳諧」という曲にまとめています。曲は、「序曲」、「奈良の公園と石燈篭」、「山中ーカデンツァ」、「雅楽」、「宮島と海中の鳥居」、「軽井沢の小鳥たち」、「終曲」の七曲から成り、ここでも一三の管楽器による小鳥が中心です。初演は一九六三年、ピエール・ブーレーズの指揮、ドメーヌ・ミュージカル管弦楽団の演奏で、パリにて行なわれました。第四曲の「雅楽」に多少雅楽の響きを思わせる部分はあるものの、その他の曲からは所謂「日本らしい音」は一切聞こえて来ません。全ての風景、印象は、まぎれもないメシアンの音楽となって表現されています。東洋風のリズムも現われますが、それは日本のものではありません。 

鳥の声と共にメシアンの音楽の中核をなしているものが、メシアン特有の多彩なリズムで、それらはグレゴリアン・チャントからギリシャ、インドに至る広い範囲にそのルーツを求めることができます。 

メシアンはほぼ六〇年にわたり、パリのトリニティー教会でオルガン奏者として奉仕をつづけたほどの敬虔なカトリック教徒でしたので、作品にもカトリック信仰に基づく神秘主義的色彩のつよいものが沢山あります。アッシジの聖人フランシチェスコを讚えるオペラ「アッシジの聖フランソワ」にも鳥の声が多用されてはいますが、作曲者の真の意図は、カトリック教義の真理の存在を示すことに他なりませんでした。カトリック教徒メシアンならではの作品です。 

このように見てくると、オリヴィエ・メシアンの音楽とは、自らが収集した鳥の歌声を中心素材に、自らが収集した世界各地のリズムを使って、自らが信ずるカトリック教会に奉仕するために作った音楽であったことが分りります。しかし、それを演奏する人、聴く人がどう受け止めるかは別の問題です。パリ音楽院でメシアンから和声を学び、メシアンの良き理解者でもあるピール・ブーレーズは、『少なくとも私は、鳥に特別な魅力を感じることはないし、鳥の声が多用されているという理由で、メシアンの音楽に対する、私の見方が変わるなどとは考えて見たこともない。基礎となるアイディアを、最終的な音楽作品にまで発展させて行く技法、それこそがこの音楽家の素晴らしいところなのだ。』(注4)と語っており、メシアン自身も『私は、無神論者には、信仰について話している。朝四時に起きて鳥の目覚めの声を聞いた事のない人のためには、鳥について話している。私の音楽の中には沢山の色を取り入れているのだが、人々はそれを見ようとしない。私はリズミシャンなのだが、人々は、軍隊の行進の靴音とリズムとを混同しているようだ』(注5)と言っていて、彼の音楽が彼の意図通り受け止められていないことに心を痛めていたふしがあります。それでもメシアンは、終生、彼自身の音楽で語り続けました。八十才の誕生日を記念する演奏会で初演された「ステンドグラスと鳥たち」、また、八十三才で亡くなる一年前に作曲した大曲「彼方の閃光」というような最晩年の作品も、小鳥、多彩なリズムと色彩、そして敬虔な祈りという、三つの要素にしっかり支えられた作品となっています。 

二十世紀の音楽と聞くと、それだけで尻込みしてしまう人も少なくないようですが、そのような人達も、メシアンを聴けば、きっと私たちの時代の音楽に対する姿勢を改めて下さることになるでしょう。










(注1) ドイツ・グラモフォンCD POCG-1751/3 のリーフレットより
(注2) キガシラコウライウグイスという和名を使っている印刷物が多い。ニシコ       ウライウグイスは山階芳麿著「世界鳥類和名辞典」(大学書林)による。
(注3) カオグロヒタキという和名を使っている印刷物が多いが、学名からカオグ       ロサバクヒタキ(「世界鳥類和名辞典」)が正しいと考えられる。カオグ       ロヒタキという鳥は別にいて、学名は Ficedula tricolor である   
(注4、 5) MONTAIGNE CD MO 781111 のリーフレット Julie de La Bordonnie に
       よる英訳部分より著者訳出

第七章 ドイツ歌曲と鳥たち

第七章 ドイツ歌曲と鳥たち 

私は、歌曲の中の鳥たちには触れないでおくつもりでした。あまりにも数が多すぎるからです。でも、私にはドイツ・リートに特別な思い入れがあって、どうしても素通りできなくなってしまいました。それは、私のためにクラッシック音楽への入口の扉の役目をはたしてくれたのが、他でもな いドイツ・リートであったからです。私がのめり込んだころは、ドリードと呼ばれていましたが、最近はリートに統一されているようなので、私もそれにならって、リートと呼ぶ事にします。 

戦後、自分で作った「電蓄」で初めて聴いたドイツ・リートが、シャルル・パンゼラとアルフレッド・コルトーの、シューマンの「詩人の恋」でした。演奏者が二人ともフランス人で、演奏しているのがドイツ語の歌曲であったことなど、その時は気にもとめませんでした。このSPレコードは、使い古された表現ではありますが、本当に擦り切れるまで何度もかけて聴きました。丁度そのころ(一九五二年)、ドイツのバリトン歌手、ゲルハルト・ヒュッシュが来日し、得意のドイツ・リートを歌いました。すでに全盛期は過ぎていましたが、古くからのヒュッシュ・ファンが押しかけ、演奏会は大変な盛況であした。高校生の私には切符を買える余裕もなく、実際の演奏には接していませんが、これを機に私のドイツ・リート熱は急上昇しました。その来日時に、ヒュッシュは「白鳥の歌」を日本で録音し、それを以てヒュッシュのシューベルトの三大歌曲集の録音が完結しました。しかし、この記念すべき録音の「白鳥の歌」のレコードは、何故かすぐ市場から姿を消してしまい、久しく廃盤のままになっていました。長いこと、この時の音源によるヒュッシュの「白鳥の歌」を聴きたいものと願っていましたが、偶然このレコードのCD復刻盤を店頭で見つけ、自分の心臓の音が聞こえた位びっくりしました。早速購入して聴いてみましたが、モノーラル録音とはいえ充分観賞に耐える音質のディスクに仕上がっています。マンフレト・グルリットのピアノが弱いこととか、エリザベート・シュワルツコッフ、ディートッヒ・フィッシャー=ディースカウ、ヘルマン・プライ、ペーター・シュライヤー、等々の、その後続々と現われた優れた歌手達の、すっきりした現代的歌唱法とは明らかに違う、古典的ともいえる唱法に違和感を感じるとか、改めて聴いてみると新しい発見もありましたけれど、何よりも、一世を風靡した人の残した貴重な歌声のCDは、人の声が作りだす音楽の虜になっていった時代のことを私に思い出させてくれ、恩師に再会出来たような、とても幸せな気分にさせてくれました。 


シューマン 歌曲集「詩人の恋」作品四八 

私をクラシック音楽の世界に引き入れてくれた「詩人の恋」は、ハインリッヒ・ハイネの詩に三〇才のシューマンが曲を付けた、全一六曲の歌曲集です。全体を通しての物語は無く、一曲一曲が独立した歌曲です。それにしても、ドイツ語のドの字も分からなかった高校生の私が、何故ドイツ語で歌われる歌曲集「詩人の恋」にあれほど引き込まれたのでしょうか。私は、ずっと後になって、チャールス・オスボーンの解説を読んで、その答えを見つけたように思いました。 

『・・・・詩そのものは、真の翻訳は不可能である。英語に作り直されたハイネの言葉はすでに元の白さを失っている。私達は、ナイチンゲール、ばら、夢、そして夢見る人が、どのような意的変容を経てハイネの言語となっていったかを理解することはできない。私達は、ただ、シューマンがこれらの詩を完璧に理解し、彼自身の共感と叙情的天性をそれらに重ね合わせることができたことに感謝するしかない。』(英グラモフォン BLP1064 ジャケット解説、著者訳) 

「英語」を「日本語」に置き換えて見ても、此の言葉は全く正しいと思います。歌われている詩の意味が理解できなくても、人の声とピアノの二つの楽器による音楽として、一曲毎の歌ではなく、全体が一つのかたまりとなって響いてくる音楽として、私は「詩人の恋」を受け入れていたのです。 

「詩人の恋」では、
第一曲 「美しい五月に」        
    美しい五月に花は咲き、鳥は歌う、そして私の心にも恋が芽生える。
第二曲「涙はあふれ出て」     
    涙はあふれて花になり、ため息はナイチンゲールの歌となる。   
    君が愛してくれるなら、花を捧げよう、窓辺にナイチンゲールの歌を響かせよう。

と歌われていますが、花や小鳥はこの後も次々と登場して来ます。シューマンの歌曲で、題名に小鳥の名前がついているものとしては、歌曲集「子供のための歌のアルバム」から「みみずく」、「つばめ」、七つのリートから「元気でね、燕さん」等が思い出せますが、歌詞の中に小鳥が登場する曲となると、あまりにも多すぎて列挙することなどとても出来はしません。  


シューベルト 歌曲集「白鳥の歌」から「鳩の使い」(Die Taubenpost)       

シューベルト生誕二百年の一九九七年には、世界各地で記念音楽会が開催されました。日本でも一月早々に、現代最高のバリトン歌手の一人ヘルマン・プライを迎え、シューベルトの三大歌曲集を中心とするドイツ・リートのリサイタルが開催されました。まさに円熟の極みにあったヘルマン・プライは絶品といえるシューベルトを聴かせてくれましたが、年が変わると間もなく急逝してしまいましたので、日本でのリサイタルはプライの白鳥の歌ともなってしまいました。年末近くにペーター・シュライヤーによる三大歌曲集を聴く機会にも恵まれました。これもまた最高級のシューベルトでした。CDの世界でも、内田光子やアンドラーシュ・シフの素晴らしいピアノ曲が続々発売されて、シューベルト・ファンにとっては幸せな一年でした。 

シューベルトのリートにも、もちろん沢山の小鳥達が歌われていますが、ここでは若くして亡くなったこの作曲家の最晩年の作品、「鳩の使い」だけを取り上げることに致します。 

歌曲集「白鳥の歌」(Schwanengesang)と言う名称は、ハスリンガーが、シューベルトが亡くなった年の歌曲作品から一四曲を選び、翌年「シューベルト遺稿集」として出版する際に命名したもので、もちろんその意味するところはシューベルトの辞世の作品ということです。しかし、この一四曲以外にもこの年に作曲された作品があって、この歌曲集の中の最後の歌「鳩の使い」がシューベルトの最後の作品ということにはならないようです。ではどの曲が本当の辞世作なのかというと、これを特定するのがなかなか難しいのですが、研究者の間では、歌曲「岩の上の羊飼い」(D965)を一番最後の作品であるとする意見が有力なようです。「岩の上の羊飼い」が作曲されたのも「鳩の使い」と同じ一八二八年の十月であったと考えられますので、仮に「鳩の使い」が最後の曲ではなかったとしても、作品リストの最後尾に列なる作品であることだけは間違いありません。 

歌曲集「白鳥の歌」におさめられた歌はそれぞれ独立した歌曲で、全体を通しての筋とか物語性はありません。一四曲の内、最初の七曲がレルスターブの詩、続く六曲がハイネの詩によるもので、シューベルトはここまでの一三曲を一八二八年の八月に作曲、そして最後のザイドルの詩による「鳩の使い」を同じ年の十月に作曲して、その翌月に突然他界してしまいました。直接の死因は腸チフスとされていますが、死ぬまで毎日の生活に追われていて、栄養も充分には取れておらず、体力的に消耗していて腸チフスに耐えられなかった事が本当の死因であるとされています。後には手書き原稿の他には、金も、家具も、財産も、著書も全く何も残っていませんでした。シューベルトのたぐいまれな才能は、彼の死後四〇年もたってから初めて本当の意味で評価の対象とされるようになったのです。 

幸いにも、シューベルトの創作活動を飾る最後の作品は、「鳩の使い」であれ「岩の上の羊飼い」であれ、どちらも希望に充ちた、優しい明るい曲です。 


マーラー 「子供の不思議な角笛」から「高い知性への賛歌」   

歌曲の大半は、ピアノの伴奏による声楽曲ですが、オーケストラをバックに歌われる歌曲も少なくはありません。シューベルトの歌曲も、ピアノの部分がオーケストラ用に編曲された版で演奏されることもあります。マーラーの歌曲は、オーケストラと一緒に歌われるものが多いのですが、例えば「子供の不思議な角笛」のように、管弦楽の伴奏で歌われる場合が多いものでも、オリジナルはピアノ版であったものもあります。最近になって、オリジナルのピアノの版を重視する動きも出てきて、CDにもピアノ版のものも現われ始めています。「大地の歌」にもピアノの版がありましたが、このことが広く知られるようになったのは極く最近のことで、ピアノ版「大地の歌」が初演されたのは、作曲家の死からおよそ八〇年もたってからのことでした。しかもその世界初演はこの日本で行なわれました。マーラー未亡人のアルマは、いかなる事情からかは不明ですが、未出版楽譜をアメリカの知人に譲ってしまっていたため、ピアノ版「大地の歌」はついぞ出版の機会に恵まれることがありませんでした。従って、長い間「大地の歌」にピアノ版があったことは、少数の研究者を除いては知られていませんでしたが、八〇年代も後半に入ってから、所有者の申し出でがあって、このピアノ版「大地の歌」の楽譜が実在していたことが明かになりました。これが正式にマーラーの作品として認知され、演奏の対象となるためには楽譜が出版されなければなりません。その出版の労を取ったのが、国立音楽大学理事長の海老沢敏氏でした。ピアノ版「大地の歌」の世界初演は、一九八九年五月一五日、テノールのエスタ・ヴィンベルイ、アルトのマリヤーナ・リポフシェク、ピアノのウオルフガンク・サヴァリッシュによって、国立音楽大学大ホールで行なわれました。 

全一四曲からなる「子供の不思議な角笛」は、一八九二年から約一〇年かけて、歌曲集としてまとめられ完成したのは一九〇一年ということになっておりますが、実際にはこの「子供の不思議な角笛」の各曲は、マーラーの他の曲の中に様々な形で度々顏を覗かせており、マーラーの音楽は、どれもがこの「角笛」と深い関わりを持っています。 

その中の一曲「高い知性への賛歌」は、ロバを審判に迎えて歌唱コンテストをするカッコウとナイチンゲールの物語りです。ロバを審判に選んだのは、大きな二つの耳を持ったロバのことなので、必ずや音楽の判定能力も高かろうと思ってのことでしたが、いざ終って見ると、ロバは複雑なメロディーの歌を美しい声で巧みに歌ったナイチンゲールではなく、たった二音からなる単調なメロディーをくりかえしただけのカッコウに軍配を上げました。「私の高い知性にぴったりの歌唱であった」というのがロバ審判のコメントです。マーラーは子供の歌を通して、裏付けのない権威主義を痛烈に揶揄しています。 


リヒャルト・シュトラウス 「四つの最後の歌」から「夕映えのなかで」 

リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」は、最初から女声とオーケストラの為に書かれた歌曲で、ピアノ伴奏版はありません。 

リヒャルト・シュトラウスはマーラーよりは四才年下で、十九世紀末には既に広く名前の知られた作曲家となっていましたが、長命であったこともあり、晩年はナチスに協力した芸術家の一人となりました。昭和十五年(一九四〇年)、当時の軍国日本は、日本の国歴の古さを誇示しようという意図もあって、神武天皇の即位を以て紀元元年とする、日本の皇紀による紀元二千六百年を祝賀する式典を挙行しましたが、その時に海外の著名作曲家に奉祝曲の作曲を委嘱しています。リヒャルト・シュトラウスの「祝典音楽(日本建国二六〇〇年祝典曲)作品八四」はその時の委嘱作品で、ナチスドイツの友好国であった日本の昭和天皇に捧げられました。リヒャルト・シュトラウスは、自らバイエルン国立歌劇場管弦楽団を指揮してこの曲を録音しています。皇紀二六〇〇年奉祝演奏会には、シュトラウスの他に、フランスのジャック・イベール、イタリアのイルデブラント・ピツェッティ、ハンガリーのシャンドール・ヴェレッシュ、イギリスのベンジャミン・ブリテンといった作曲家が作品を寄せていますが、ブリテンの曲は「鎮魂交響曲(シンフォニア・ダ・レクイエム)」と題されていたところから、それが天皇への意図的な侮辱であると見なされ、ブリテンは日本の政府から厳重な抗議を受ける結果となりました。もちろん奉祝演奏会での演奏も認められませんでした。この曲が日本で初演されたのは、戦争も終わってだいぶたった一九五六年のことで、作曲者自身がN響を指揮するために来日していますが、この時に日本で観たお能の「隅田川」が、ブリテンに「カリュー・リヴァー」を作曲させる動機を提供したというめぐり合わせに興味を覚えます。 

「四つの最後の歌」はリヒャルト・シュトラウスの最晩年、一九四八年の作品で、「最後の」という文字は作曲者の死後彼の友人により書き加えられたものです。タイトルの通り曲は四曲からなり、最初の「春」「九月」「眠りにつこうとして」の三つはヘッセの詩によるものですが、最後の「夕映えのなかで」はアイヒェンドルフの詩が使われています。八四才の老作曲家は、「夕映えのなかで」に描かれている、夕陽に輝く天空に舞い上り消えてゆく二羽のひばりに自分の生命を託したかのように、安らかな死と、その後の魂の平安を予感させてくれるような素晴らしい音楽をつけてくれました。この「四つの最後の歌」は、シュトラウスの死後の一九五〇年、フラグスタートの独唱、フルトヴェングラーの指揮でロンドンで初演されました。









(注1)英グラモフォン BLP1064 ジャケット解説 著者訳

第六章 あひる、鵞鳥、はと

第六章 あひる、鵞鳥、そして鳩 


プロコフィエフ 「ピーターと狼」 ー 小鳥とあひる 

プロコフィエフは音楽的には大変早熟な人で、九才の時にはすでに「巨人」と題する子供用オペラを作曲しています。一一才にして早くもラインホールド・グリエールに付いて体系的に、そして専門的に音楽の勉強を始め、一三才でサンクトペテルブルグ音楽院に入学を認められています。以後一〇年間そこで一貫教育を受け、ピアノ、作曲の両部門を卒業する時には、アントン・ルービンシュタイン賞(優等賞)を受賞しました。卒業演奏会では自作のピアノ協奏曲第一番を演奏しています。 

子供のための音楽おとぎ話し「ピーターと狼」が作曲されたのは、一九三六年プロコフィエフが四五才の時で、一時パリに居を構え、ディアギレフのロシア・バレエ団と一緒に仕ことをしていたプロコフィエフが、モスクワに戻り、積極的に祖国のために音楽を書き始めたころの作品です。(プロコフィエフの思いとは裏腹に、祖国ソヴィエトの音楽界はプロコフィエフを、退廃音楽に手を染めた作曲家として告発し続けるのですが。)物語自体もプロコフィエフが自分で書きました。 

この音楽おとぎ話しは、言葉によるナレーションに続いて音楽が演奏され、言葉と音楽とで二度同じ物語が語られる仕組みになっています。主人公のピーターは弦楽四重奏、小鳥はフルート、あひるはオーボエ、猫はクラリネット、お爺さんはバスーン、狼が三本のホルン、猟師がティンパニとバスドラム、というように、物語の登場人物毎に楽器が振り当てられていて、鳴っている楽器により、今、どのキャラクターが活躍しているのかが子供にもよく解かる仕組みになっています。子供用音楽教材として使用されることを意識して作られた作品ですが、十二分にその目的にかなったものに仕上がっていて、今や世界中で、子供を対象とする音楽会のスタンダード・プログラムとなっています。大人が聴いても結構楽しい音楽劇ですし、いろいろな国の言葉によるナレーションのCDが出ていますので、違う言葉のナレーションのCDをいろいろ聴いてみるのも一つの楽しみ方かも知れません。 

アヒルもニワトリと同じ家禽、つまり、人間によって飼い馴らされた鳥で、先祖はガンカモ科(Anser, Anas)の鳥です。しかし、多様化しなかったのは、人間にとっての利用価値が、ニワトリ程は高くなかったからなのでしょう。たしかにアヒルが今以上に上手に鳴けるようになるとは思えませんし、闘争心もニワトリほど旺盛ではないので、喧嘩鳥としても使えそうもありません。産卵量もニワトリにはかないません。愛嬌があって可愛いけれど、人間が作り出した動物の中ではあまり利用価値の高くない動物ということになってしまうのではないでしょうか。 


ラヴェル バレエ音楽「マ・メール・ロア」 ー 鵞鳥 

モーリス・ラヴェルは今世紀前半に活躍したフランスの奇才で、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の編曲や「ダフニスとクロエ」「ボレロ」といった管弦楽の作品を通して広くその名が知られていますが、実際には、ピアノ曲や室内楽に優れた作品を沢山残しています。 

「マ・メール・ロア」という題名は、シャルル・ペローの、一七世紀のおとぎ話しを集めた Contes de ma Mere l'Oye〈私のマザー・グースのお話〉によるもので、いわばフランス版マザー・グースです。一九〇八年から一九一〇年頃にかけて、ラヴェルは「マ・メール・ロア」から五つの物語を選んでピアノ連弾曲を作曲しましたが、すぐ、それを管弦楽用に編曲した上で順序を組み替え、間奏曲を加え、さらに前奏曲と序奏部分を書き加えてバレエ用の音楽に作り変えました。バレエ「マ・メール・ロア」は一九一二年一月に芸術劇場で初演されております。「マ・メール・ロア」の個々の話しを、連続夢物語の形で「眠りの森の美女」の話しの順序につなぎ合わせる工夫がなされていますが、これはラヴェル自身の考案によるものです。バレエ音楽は、その後組曲にもまとめられています。 

「マ・メール・ロア」は題名がマザーグースであると言うだけで、鵞鳥は登場しません。出てくる鳥は、道しるべ代わりに小人がまいておいたパン屑を食べてしまう小鳥だけです。 

ところで、西洋人は一般的にラヴェルの「ボレロ」が大変好きなようです。限られた私の経験だけから断定的な物言いをすることは避けるべきとも思いますが、それでも「ボレロ」が演奏されると会場には異様な雰囲気が充満し、曲が終わると半狂乱に近い人が出現するという現象は日本ではあまり目にしたことがないので、やはり、西洋人にはこの曲に特に強く反応する「何か」があるように思えてなりません。昔、私がそのことを話題に持ち出した時に、私の友人の一人であるイギリス人の女性は「ボレロはセクシーな曲だ」と言いました。パブで酒を飲みながらの話しであったからか、それに同調した男性の友人は「少しずつ、少しずつ盛り上がってゆくあの音楽は、女性がエクスタシィを追求してゆく過程そのものなのではないか」というようなことを言いました。女性の友人がその言葉に敢て異を唱えることをしなかったので、あるいはそうなのかも知れないとその時は思いました。しかし、それならば日本にも女性はいるのに、とも思います。 

一九八四年、サラエボに於ける冬季オリンピックのアイスダンスで、金メダルを獲得したのはイギリスのジェーン・トービルとクリストファ・ディーンのカップルでした。芸術点の審査ではジャッジの全員が満点を付けたくらいの素晴らしい演技でしたが、彼らが使用した音楽がボレロであったことも極めて印象的でした。 


シェーンベルク 「グレの歌」 ー  山鳩 (森の鳩) 

私は、第三章「ナイチンゲール」のところで、ストラヴィンスキーにふれ、彼が二〇世紀を代表する作曲界の巨星の一つであったと書きました。ストラヴィンスキーを巨星と呼んだ以上、二〇世紀のもう一つの巨星、シェーンベルクにふれないわけにはいきません。この二人の後に現われ、優れた作品を残した、あるいは残している作曲家達も、自分の進路を定める上で、何らかの形で二人の影響を受けたはずで、やはりストラヴィンスキーとシェーンベルクの存在は偉大であったと思います。 

ストラヴィンスキーは、礼儀正しいことが美しいことであった時代に荒々しい蛮人の音楽を持ち込み、音楽に健康さと新鮮さを取り戻させることに成功しました。馴れ親しんだロマン派の音楽の殻を破って突き抜ければ、そこに新しい音楽の世界が開けることを万人に示したのです。しかしストラヴィンスキーがその後たどった道は、バーバリズムの展開ではありませんでした。ストラヴィンスキーが「春の祭典」を投げ込むことで手にしたものは、複雑な語法を簡素化し、音楽をもっと根源的な形に還元するための出発点でした。「春の祭典」は「ご破算で願いましては」の役割を果したのです。ストラヴィンスキーの古典への回帰はそこから始まっています。 

一方のシェーンベルクは、ロマン派の巨人ワーグナーの半音階主義を更におしすすめ、ついにはロマン派からも脱却して一二音技法を確立し、無調構成の音楽を作り出すという方向に進みました。つまり、ストラヴィンスキーがすでに複雑すぎると感じた語法を、更に発展させる方向にシェーンベルクは進んでいったのです。その音楽は、従って、大変複雑かつ難解であるといわれています。一二音技法とは、独立した、しかも個々に互いに連係しあうことが可能な一二の音を使って作曲する技法のことで、この技法によって作られた音楽が一二音音楽です。一二音音楽のアイデアは一人シェーンベルクだけのものではありませんでしたが、一二の音の基本的な並べ方と、そのフォームの変換の仕方を確立したのはシェーンベルクの功績です。(注1) 

シェーンベルク派の旗手ルネ・レーボヴィッツは『(シェーンベルクの)音楽はむずかしいきわめて複雑なもので、その意味は、普通音楽に与えられている意味をはるかに越えている。実際、シェーンベルクの貢献は外面からだけ考えられやすいが、それでは彼の貢献の本質は全部見のがされてしまう。シェーンベルクの名前が出るやいなや、無調性とか一二音技法とか不協和音などについて語られるだけで、このような諸様相をもつ技術が、音楽史を通じて稀有の作曲上の急進主義に帰結するものであることは忘れられる(原因ではなく結果である)。だが作品のなかに含められているものは、なによりもまず、特異な力量と独創性によって《音楽を考える》その方法なのだ。この音楽的思考の厳しさによって、作曲の過程自体が、変革されると同時に深く掘り下げられた。』(注2)と書いており、音楽を深く考えれば考えるほど、それを表現する手段として複雑な技法も使わなければならず、結果的に難しい音楽になってしまうのだと言っているように受け取れます。しかし、シェーンベルクの音楽を解析したり演奏したりするには、素人には解からない難しさがあるのかの知れませんが、音となって耳に届く音楽が特に難解な音楽であるようには私には思えません。「浄夜」や「グレの歌」のような初期の調性に基づいた音楽はもちろん、「月に憑かれたピエロ」のような無調の音楽も、みんな美しい、優しい音楽です。 

「グレの歌」は独唱、合唱を伴うオーケストラ曲で、物語が語られるているところから形式的にはオラトリオの部類に属すると言えますが、音楽的構造は交響曲の技法によっており、劇的構造はオペラによっているところから、〈劇的交響曲〉とよぶのが一番ふさわしいように思います。 

少女トーヴェとグレの城の王ヴァルデマルの恋、トーヴェの死、ヴァルデマル王の苦悩と怨念、魂の救済、という内容の物語は、デンマークの城グレの伝説に基づくもので、ペーター・ヤコブセンの詩による物語が壮大な音楽に乗って語られます。(テキストにはロベルト・フランツ・アルノルトのドイツ語訳が使用されています。)物語の中で、少女トーヴェの死は山鳩によって伝えられます。山鳩は「ヘルヴィヒの鷹がグレの鳩を八裂きにした」と悲しげに歌い、ヴァルデマル王に愛されていた少女トーヴェリーレ(可愛い鳩)が、嫉妬深い王女ヘルヴィヒによって殺されたことを知らせます。 

「グレの歌」の特筆すべき特徴の一つは、演奏に要する演奏者の数で、オーケストラは、ピッコロ四、フルート四、オーボエ三、イングリッシュ・ホルン二、イ調または変ロ調のクラリネット三、変ホ調のクラリネット二、バス・クラリネット二、バスーン三、コントラバスーン二、ホルン一〇(時々四本のワーグナーテューバと持ち変え)、トランペット六、バス・トランペット一、アルト・トロンボーン一、テノール・トロンボーン四、バス・トロンボーン一、コントラバス・トロンボーン一、(テューバ一、)ティンパニ六、テノール・ドラム、各種シンバル、トライアングル、グロッケンシュピール、サイド・ドラムとバス・ドラム、(タンバリン、)木琴、タムタム、(鉄鎖、)ハープ四、チェレスタ、第一ヴァイオリン二〇、第二ヴァイオリン二〇、ヴィオラ一六、チェロ一六、コントラバス一二、という編成で、これだけでも約一五〇人、それに独唱者と語り手の計六人、更に三組の男声四部合唱と混声八部合唱からなる合唱団が加わるわると、総勢は悠に二百人を越える大編成で、その規模たるやまさに横綱級といえます。全員がステージの上に上るだけでも大変です。シェーンベルクは「グレの歌」のスコアを作成するにあたって、四八段の五線紙を特注しなければなりませんでした。四八もの違う音が同時に鳴り響く音楽を作るという作業がいかに大変な作業なのかは、ただ想像するしかありませんが、その音のかたまりの中に身をまかせる快感は、聴く人すべててに与えられた特権です。 


ドヴォルザーク 交響詩「野鳩」 

ドヴォルザークは、一八四一年にボヘミアの寒村ネラホゼベスに生まれました。スメタナが確立させたボヘミアの音楽を、世界的に普及させる上で重要な役割をはたしたチェコの作曲家です。一八七四年、プラハでスメタナの指揮によりドヴォルザークの作品一〇の変ホ長調の交響曲(第三番)が演奏されて評判になりましたが、彼がヨーロッパ作曲界で広く知られるようになったのは、翌一八七五年にオーストリア政府の作曲賞に入賞、続いて一八七七年には更に二作品が入賞を果たしてからのことです。このオーストリア政府賞は、ヘルベック、ハンスリック、ブラームスというような、そうそうたるメンバーがその審査に当たるレベルの高いコンテストで、そこで、二度にわたり三作品もの入賞を果たしたというだけでも、ドヴォルザークの才能がいかに秀でたものであったかが分ります。特にブラームスはドヴォルザークを高く評価し、コンテスト以後も、楽譜を出版するための出版社を紹介したり、何かと彼の面倒をみるようになりました。ブラームスは、こと音楽に関する限り同業者には極めて辛辣であったと伝えられていますが、ドヴォルザークに対してだけは例外であったようです。ドヴォルザークは、ブラームスの紹介で彼の曲を出版してくれるようになったジムロックに、『「ブラームスは私と知り合ったことを喜んでくれているように見えます。芸術家、そして人間として、私は彼の親切に圧倒され、彼を敬愛せずにはいられません。あの人は何と暖かい心と偉大な精神を持っていることでしょう。少なくとも彼の作品に関するかぎり、彼は親友にさえ距離を置くのに、私に対してはそうではありませんでした。」』(注3)と話しています。 

名前が知られるようになったのは三〇才を過ぎた後で、ドヴォルザークは決して早咲きの作曲家ではありませんが、ジムロックの手でドヴォルザークの楽譜が出版され始めると、たちまちのうちにヨーロッパにおける屈指の人気作曲家となりました。一般大衆のみならず、ハンス・フォン・ビューローも、ドイツの批評家ルイス・エーレルトも、一様に新しい才能の登場を最大限の賛辞をもって受け入れています。そして、以後今日まで、ドヴォルザークはその作品が常時演奏される作曲家であり続けています。 ところが、ドヴォルザークの音楽は「田舎臭く、野暮ったく、洗練度に欠け、知性的でない」として、一流とは認めようとしない音楽愛好家も少なくありません。事実ドヴォルザークと言う人は、『晩年、彼は時々思い立つと、入門書を読んで 教養を高め ようとした』(注4)知性的という表現は当て嵌めようのない人物であったようです。ボヘミアの寒村に生まれたドヴォルザーク自身が、洗練にどれほどの意味を認めていたかも分りません。しかし彼は音楽家でした。それも深く民族意識に根ざした音楽家でした。そして何よりも特筆されなければならないことは、彼が心身共に極めて健康な普通人であったと言うことです。だからこそ彼は健康的で力強く、純粋で透明な音楽を作り続けることができたのです。ショーンバーグは、『全創作期間を通じ、彼は後期ロマン派中で最も幸福な人間であり、ノイローゼ的要素が最も少ない作曲家であった。「神、愛、母国」が彼のモットーだった。ブラームスは絶望的な憂鬱感を経験し、チャイコフスキーのノイローゼは、途方もないほどひどかった。マーラーのノイローゼは、それに比べればチャイコフスキーのノイローゼが健康的に見えるほどで、マーラーは胸をたたき、髪の毛をかきむしった(その一方、後世の評価がどうなるかと、横目を使っていたが)。ブルックナーは座って震えながら神の啓示を待った神秘家であり、エリザベス時代的な意味での自然主義者であった。ワーグナーはひねくれたエゴイストであり、リストは複雑で矛盾に満ちた天才だが、いかさまのイエズス会牧師だった。ひとりドヴォルザークだけが、単純で屈折のない道を進んだのであり、彼はヘンデル、ハイドンと並んで、あらゆる作曲家中で最も健全な作曲家である。』(注5)と書いていますが、全く同感です。 

一八九二年、ドヴォルザークは請われてアメリカに渡り、ニューヨークのナショナル音楽院の院長に就任しました。ドヴォルザークに白羽の矢がたったのは、ナショナル音楽院の創立に力のあったジャネット・サーバー女史が、かねてから、アメリカに新国民楽派を作りたいと考えていて、彼女が、ほとんど全ての作品に民族主義を体現しているドヴォルザークこそが新国民楽派を目指すアメリカの作曲家が手本とすべき格好の実例と考えたからでした。サーバー夫人の期待にたがわず、ドヴォルザークは滞米中の三年間、アメリカ風民族音楽の創造を提唱し続けました。彼のアイディアは、彼自身が、ハーパー社の「New Monthly Magazine」(一八九五年二月号)に寄せた「アメリカの音楽(Music in America)」に明確に記されています。彼は「アメリカは尽力してきているほとんど全ての分野でまさに驚嘆と呼べるものを手中にしてきているが、こと音楽に関する限りヨーロッパの音楽のへたな模倣に甘んじていて、目指している方向が反対であることは疑う余地が無いと」し、これを正すために成すべきこととして、ニグロとインディアンのメロディーに立脚した、アメリカ的スタイルを育成することであると力説しています。 

ドヴォルザークがアメリカ滞在中に作曲した、第九番(旧称五番)の交響曲「新世界より」の中にも、黒人霊歌のメロディーの断片とかアメリカ・インディアンの音楽を連想させるようなメロディーがちりばめられています。しかしながら、アメリカ風の素材が使われているとはいうものの曲自体は明かにボヘミア風音楽で、これがアメリカ楽派の見本的扱いを受けることがもたらす混乱を危惧してか、ドヴォルザーク自身もこれには格別アメリカ的な要素は含まれていないと主張しています。 

ニューヨークのような都会は、ドヴォルザークにとって決して住みやすい場所ではなかったようです。職務上ニューヨークに居を構えてはいたものの、休暇は必ずアイオワ州の深い森に包まれたスピルヴィルへ行って過ごしました。スピルヴィルはチェコからの移民の町でした。ドヴォルザークは、そこでつのる望郷の想いを癒していたのです。 

交響詩「野鳩」は、ドヴォルザークがアメリカから帰国した後の一八九七年に、祖国チェコの国民的詩人エルベンの詩集「花束」に触発されて作曲したものです。詩集「花束」からインスピレーションを得て作曲した交響詩「野鳩」となれば、ほのぼのとした牧歌的な曲を期待してしまうのが普通ですが、実際には、夫を毒殺して若い男と結婚した女が、夫の墓の樫の木に巣を作った野鳩が悲しげに鳴くのを聞くうちに、次第に良心の呵責に耐えられなくなり、ついには自殺をしてしまうという、何とも生々しい、そして暗い内容の曲なのです。曲は夫の葬儀の場から始まりますが、冒頭で曲全体のベースとなるモチーフが提示されます。そのモチーフの展開がそのまま曲の展開になっていて、間に野鳩の羽音を思わせるような弦楽器や、鳴き声を思わせるような響きが効果的に配されています。 


レスピーギ 組曲「鳥」 ー 鳩 

組曲「鳥」の中で残ったのは鳩だけになっていました。レスピーギの、組曲「鳥」のそれぞれにはもとうたがあることは既に紹介してきた通りですが、この「鳩」のもとうたは、一六八五年頃亡くなったジャック・デ・ガロと言う人によるものです。 

鳩という鳥は、地域によって受け入れられ方が極端に違う鳥で、日本では、ドバトの糞公害は別として、平和のシンボルというように比較的よいイメージで受け入れられていますが、欧米では地域によっては気難しくて、浮気っぽく、可愛くない鳥というイメージが定着しているところもあります。幸いレスピーギの「鳩」はあたたかい声で鳴く優雅な鳥として描かれていて、鳴き声にはオーボエが使われています。 

日本で見かける鳩としては、ドバト、キジバトが圧倒的に多く、続いてアオバトということになるのでしょうか。ドバトはカワラバト(Columba livia)から愛玩用、伝書用、レース用等の目的で家禽化されたものが再野生化したもので、市街地、神社、寺院、駅舎でよく見られます。キジバト(Streptopelia orientalis)も、留鳥として日本全国に分布しています。平地から山地の林を好みますが、市街地でも樹木のあるところならば見ることができるので、環境適応力は比較的旺盛な鳥と言えます。ドバトよりは丸い感じで、全体がぶどう色をしていて、うろこ模様がきれいです。アオバト(Sphenurus sieboldii)も決して数は少ないわけではありませんが、よく茂った広葉樹林におとなしく暮らしていますので、見つけようと思って見ないとあまり目にはつきません。身体は薄緑で、羽根はワイン色をしています。コシラバト(Streptopelia decaocto)は、グレーの身体で首筋に黒い線の入った鳩で、関東地方のごく限られた地域に棲息しています。この鳩は、ヨーロッパでは、一九三〇年頃まではバルカン半島の一部に棲息しているにすぎなかったのですが、その後約四〇年の間にヨーロッパ全域にその分布が広がり、イギリスでは一九五五年頃まではあまり見かけない種類でしたが、今や英国全土何処でも見られるばかりでなく、鳩の仲間のなかでも固体密度の高い種類となっています。カラー・ドーヴと呼ばれるこの鳩は、どうやら他の鳥では埋められない隙間を上手に見つけ出したようで、ヨーロッパでは繁殖面でのサクセス・ストーリーの主人公となりました。そのようなわけで、今は関東地方の一部、埼玉県越谷の近辺でしか見られないこの鳥も、何かのきっけで日本中にその分布が広がるようになるかも知れません。









(注1) The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians
(注2) レーボヴィッツ著、船山隆訳「シェーンベルク」 白水社
(注3、 4、5)ショーンバーグ著、亀井旭・玉木裕訳「大作曲家の生涯」共同通信社      
 

第五章 からす

第五章 からす 

一般的には、からすは嫌われ者です。かつては、    

    からす、なぜなくの    
    からすはやまに    
    かわいいななつのこがあるからよ        

    やまのふるすへ    
    きてみてごらん    
    まあるいめをしたいいこだよ     

    かわい、かわい、とからすはなくの    
    かわい、かわい、となくんだよ

という童謡が、そんなに嘘っぽく聞こえなかった時代もありましたが、今は、からすが七つの子が可愛いと鳴いていると言っていられるほど悠長な時代ではなくなってしまいました。都会にはからすが増え過ぎ様々な問題を引き起こしています。 

しかし、都会で増えて来ているからすは主としてハシブトガラス(Corvus macrorhynchos) という種類のもので、この一種類のからすにカラス科の鳥すべてを代表させてしまっては、からすが可哀相です。ハシブトガラスによく似た、くちばしが少しスマートなハシボソガラス(Corvus corone) という種類は、都会よりも農耕地、川原、海岸の方が好きなようです。鳴く時もハシブトのような威張ったふりをせず、頭を下げてお辞儀をするような姿勢を繰り返します。ハシブトもハシボソも夜は一定の森を群れでねぐらとします。 

日本全国のほぼ何処でも見ることのできるカケス(Garrulus glandarius)もからすの仲間です。身体全体はぶどう色で頭はゴマシオ、羽根を広げると鮮やかな青色が目立つという中々お洒落なからすです。英国ではこの鳥は Jay と呼ばれていますが、その名の通り「ジェーイ」と鳴きます。つまり、日本のカケスも英語で鳴くのです。中々やるではありませんか。また、この鳥は他の鳥の鳴き声を真似るのも上手なので、鳥の鳴き声の録音をする時などは、用心しないととんでもない似せ声をつかまされることになります。 

若狭湾と伊勢湾を結んだあたりから北の本州に広く分布しているオナガ(Cyanopica cyana)もからすです。頭は黒く、頬からのどのあたりが白、それが腹から背中にかけて少しづつ灰色になじんでゆきます。そして羽根と長い尾は青というように、見た目は美しい鳥ですが、鳴き声はギェー・グェーと誠にうるく、群れをなして移動する習性がありますので、一団が飛来すると何事かと思うほどにぎやかです。  

  かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける  中納言家持

と百人一首の歌にも詠まれているカササギ(Pica pica)もからすですが、日本では九州北部にしか棲んでいません。一歩海を越えて大陸に渡れば、日本海沿岸から大西洋沿岸、英国に至るまで続く広い地域に分布しているのに、日本海で隔てられた本州、四国、北海道には棲んでいません。一方、カケスは大陸に於てもカササギとほぼ同様の地域に分布していて、日本海を越えた本州にも北海道にも棲んでいます。非常に近い種類の鳥なのに不思議なことです。カササギは良く見ると緑色や紫色が混じっていて、中々複雑な色合いをしているのですが、一寸目には白と黒の二色の鳥に見えます。鳩よりは一まわり大型で精悍な感じの鳥です。 

からすには一般的にいって美声の持ち主はいません。かのマリア・カラスとて例外ではなく、「ベルカント・クオリティーを欠いた声」(注1)の持ち主で、「技術的に、コロラテユーラは欠陥だらけ」(注2)と言われ続けました。「もし、オルガスムが歌う事ができれば、マリア・カラスの様にうたうだろう」(注3)というような、とてつもないコメントすら残っています。しかし、彼女の舞台で役柄の人物を作り上げる才能は非凡なもので、オペラ歌手としてのマリア・カラスはとにかく立派でした。彼女ほどのドラマティックなソプラノは、これからもそうそう出て来るとは思えません。今は残されている録音からしか彼女を偲ぶことはできませんが、例えば、帝王になる前の若いカラヤンが指揮したベルリン市立歌劇場でのライヴ、「ルチア」の狂乱の場などには恐ろしいほどの凄さがあります。激して喧嘩をし、ステージを途中で放棄したり、出演予定の舞台を完全にすっぽかしたりと、とかく問題の多かった歌手で、海運王のアリストテル・オナシスとの結婚とか、それに続くオナシス夫人の座をめぐってのジャクリーヌ・ケネディとの軋轢を含め、私生活もゴシップにまみれたものでした。そんなこともあってかマリア・カラスを手放しで褒めることには抵抗があるようで、彼女に関するコメントには酷な物も少なくありません。しかし、マリア・カラスの歌は、アクメの叫び声のようだとか、「冗談めかして言うならば、彼女は肉欲の権化であった」(注4)とか音楽辞典に書かれてしまうカラスに私は同情を禁じ得ません。 


シューベルト 歌曲集「冬の旅」から第十五曲「鴉」 

シューベルトやシューマンに限らず、詩に曲をつけた歌曲には鳥が度々あらわれますので、それら全てを網羅しようとすると手に負えない作業になってしまいます。できれば歌曲の中の鳥は避けて通りたいところです。それにもかかわらず、ここで歌曲集「冬の旅」に登場してもらったのは、実は「からす」はあまり音楽の中には出て来ない鳥で、ずばり「鴉」と題した曲としてはこれしか思い当たらなかったからなのです。 

からすと言う名前からイメージする鳥は「黒い鳥」で、その色は即「不吉」を連想させます。これが、からすがあまり音楽の中に登場し得ない理由なのではないでしょうか。このシューベルトの「鴉」も暗く、そして不吉です。    

    鴉が一羽一緒に     
    町から随いて来た。     
    今日までずっと     
    頭のまわりを飛んでいる。     

    鴉よ、変わった動物よ、     
    僕を見捨てようとはしないのか?     
    やがてここで僕の身体を     
    餌食にしようと思っているのか?     

    よし、もうこれ以上さすらいの     
    この杖にすがって行くことはない。     
    鴉よ、いよいよ墓に入る時まで     
    誠実さを僕に示してくれ!               

              (注 石井不二雄訳 Claves CD 50-8008/9 解説より)

シューベルトは貧しい家庭に生まれ、貧しい生涯を送り、そして、貧しいままに世を去りました。従って、彼は財産と称するものを持ったことがありませんでした。ほんの少々でも余裕があれば、より有利な条件で曲を出版することも可能ではあったはずなのですが、シューベルトとしては、今日を生きる為の金を優先させざるを得ず、必要以上に譲歩を余儀なくされて、みすみす安い価格で名曲の数々を手放さざるを得ませんでした。当時のウィーンの通貨グルデンというのが、現在の価値でどの位のものなのかは知りませんが、「さすらい人幻想曲」を出版したカッピ・ウント・ディアベリ社が、その後四〇年間にあげた純益は、この曲一曲だけで二万七千グルデンにのぼるといわれていますが、シューベルトがこの曲の代価として受け取った印税は、わずかの二〇グルデンであったそうです。(注5)

曲の安売りにまつわる話はこれだけではありませんが、楽譜出版の全てを知り尽くした出版社と、世間知らずの芸術家との交渉では、勝負は最初から決まっていたようなものでした。常に金の無い生活を強いられていただけに、瞬間的に多少のまとまった金を手にしたような時、それを享楽の巷できれいさっぱり使い果たすことに快感を覚えたりもしたのかも知れません。彼のまわりにはそれを助けるようなボヘミアンの友人も少なくありませんでした。二〇代後半の内気な青年には、自ら進んで邪道に足を踏み入れる程の勇気も無かった反面、そのような誘惑に打ち勝つだけの自制力もありませんでした。その結果、一八二三年には公表を憚るような病魔に見舞われ、一時は頭髪を失うほどまでに病気が進行しました。一八二四年に入ってかつらが不要なところまで回復はしましたが、この病気がシューベルトをして厭世的な方向に向かわせる原因となったことは明らかです。 

歌曲集「冬の旅」は一八二七年、三〇才の時の作品で、シューベルトはその翌年にはこの世を去っています。早世の作曲家といえばモーツァルトということになっていますが、シューベルトはモーツァルトよりも更に薄命でした。一八二三年に貧困と病苦に苦しみながら歌曲集「美しい水車屋の娘」を作曲しましたが、ここではウイルヘルム・ミュラーの詩が使用されています。シューベルトは一度もミュラーと対面したことはありませんでしたが、憧れ、さすらい、孤独、憂愁、というような主題を好んで使うこの詩人に、自分の分身を見い出していました。そして、一八二七年に同じ詩人の連作詩「冬の旅」を読んだシューベルトは、絶望と共に歩む「冬の旅」の主人公に自分自身を重ねあわせ、悲痛なまでの感動を覚えたのです。頭痛と闘いながら作曲は進められ、春までに大半が完成、秋にグラーツへの旅から帰った後一気に後半の残りを作り終えました。シューベルトは自信をもって友人達に「冬の旅」を歌って聞かせましたが、集まった人達は、あまりの暗さに言葉を失い、中の一人がただ「菩提樹がいいね」と言っただけであったということです。しかし、その時シューベルトが「自分はこの全部の歌が他の何れよりも好きで、君たちも今に好きになるだろう」と言った通り、宮廷歌劇場歌手のミヒャエル・フォーグルの努力もあって、次第にこの歌曲集の真価が認められるようになって行きました。フォーグルはシューベルトより二九才も年長で、普段の付合は無かったものの、シューベルトの歌曲の良き理解者で、作曲者の死後も機会あるたびにシューベルトを歌い続けました。シューベルトが亡くなってからすでに一〇年以上過ぎた一八三九年、そして、それはフォーグル自身の死の一年前のことでしたが、最早足腰も不自由になったこの老歌手は、ミニ・シューベルティアーデを開催し、そこで「冬の旅」を絶唱しました。集まった人々は皆涙を流して聴き入ったと伝えられています。 

「冬の旅」は、失意のうちに放浪の旅に出る、孤独な青年の物語です。恋に破れた青年というだけで、その他の身分的詳細は一切語られていません。それ故に、主人公の憂うつ、苦悩、諦観が、物語の枠を越えて、聴く人の中にある潜在的な同種の感情と同化し、深い感動を呼び起こします。 

歌曲集が終盤に向かうあたりで歌われる「鴉」では、やがて自分をついばむかも知れないからすに、「私を見捨てないのはお前だけだ。お前の意図が何であれ、構いはしない。最後まで、ずっと随いてきておくれ」と語りかけずにはいられない青年の孤独、そして諦念が歌われています。ここでの、「鴉よ、風変わりな動物よ(Krahe, wunderliches Tier)」と言う呼びかけは、最終曲では、からすではなく、乞食に向かって発せられます。「風変わりな老人よ(Wunderlicher Alter)、私はあなたと一緒に旅する事になるのだろうか。あなたは、私の歌に合わせて、手回し楽器(ライアー)を回し続けてくれるのだろうか」。 

相寄る魂を求める孤独な心の叫びは、孤独である事を余儀なくされている現代人の心に深くしみ入り、共感を呼びおこします。 



ロッシーニ 歌劇「泥棒かささぎ」(La gazza ladra)序曲 

カササギは英国ではマグパイ(Magpie)と呼ばれ、古くから縁起の悪い鳥とされていて、面白い迷信も受け継がれてきています。マグパイに出会った時、その鳥が一羽だけしかいなかった場合には見た人に悲しみがもたらされると言います。不幸にして一羽しか見ることが出来なかった場合、もたらされるはずの悲しみから逃れるためには、先ず、胸に十字を切ってから、帽子を取って鳥の方に向け、帽子を被っていない時は右肩越しに三度唾を吐いてから、「悪魔、悪魔、お前なんか知らないよ」と唱えると良いとされています。イギリスの悪魔が英語しか分からないと、日本語で言っても通じないので、このおまじないは、英語では Devil, Devil, I defy thee と言うことを明記しておきましょう。ただし、路上で肩越しに唾を吐いて警察のお世話になっても、それから逃れるおまじないは私は知りません。 

カササギの学名は PICA PICA です。その名の通り、この鳥はピカピカ光るものがお好きなようです。ロッシーニの歌劇「泥棒かささぎ」も、かささぎが銀の食器をくわえて自分の巣に運んだり、少女の手から銀貨を盗んでいったりという話をもとに作られた喜歌劇ですが、昨今、歌劇全体が上演されたという話しはほとんど耳にしません。序曲だけは今でも演奏される機会は少なくないようです。










(注1ー4)The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians,
      Callas, Maria (著者訳)
(注5)属 啓成著「シューベルトの生涯と芸術」 千代田書房