2008年7月30日水曜日

第七章 ドイツ歌曲と鳥たち

第七章 ドイツ歌曲と鳥たち 

私は、歌曲の中の鳥たちには触れないでおくつもりでした。あまりにも数が多すぎるからです。でも、私にはドイツ・リートに特別な思い入れがあって、どうしても素通りできなくなってしまいました。それは、私のためにクラッシック音楽への入口の扉の役目をはたしてくれたのが、他でもな いドイツ・リートであったからです。私がのめり込んだころは、ドリードと呼ばれていましたが、最近はリートに統一されているようなので、私もそれにならって、リートと呼ぶ事にします。 

戦後、自分で作った「電蓄」で初めて聴いたドイツ・リートが、シャルル・パンゼラとアルフレッド・コルトーの、シューマンの「詩人の恋」でした。演奏者が二人ともフランス人で、演奏しているのがドイツ語の歌曲であったことなど、その時は気にもとめませんでした。このSPレコードは、使い古された表現ではありますが、本当に擦り切れるまで何度もかけて聴きました。丁度そのころ(一九五二年)、ドイツのバリトン歌手、ゲルハルト・ヒュッシュが来日し、得意のドイツ・リートを歌いました。すでに全盛期は過ぎていましたが、古くからのヒュッシュ・ファンが押しかけ、演奏会は大変な盛況であした。高校生の私には切符を買える余裕もなく、実際の演奏には接していませんが、これを機に私のドイツ・リート熱は急上昇しました。その来日時に、ヒュッシュは「白鳥の歌」を日本で録音し、それを以てヒュッシュのシューベルトの三大歌曲集の録音が完結しました。しかし、この記念すべき録音の「白鳥の歌」のレコードは、何故かすぐ市場から姿を消してしまい、久しく廃盤のままになっていました。長いこと、この時の音源によるヒュッシュの「白鳥の歌」を聴きたいものと願っていましたが、偶然このレコードのCD復刻盤を店頭で見つけ、自分の心臓の音が聞こえた位びっくりしました。早速購入して聴いてみましたが、モノーラル録音とはいえ充分観賞に耐える音質のディスクに仕上がっています。マンフレト・グルリットのピアノが弱いこととか、エリザベート・シュワルツコッフ、ディートッヒ・フィッシャー=ディースカウ、ヘルマン・プライ、ペーター・シュライヤー、等々の、その後続々と現われた優れた歌手達の、すっきりした現代的歌唱法とは明らかに違う、古典的ともいえる唱法に違和感を感じるとか、改めて聴いてみると新しい発見もありましたけれど、何よりも、一世を風靡した人の残した貴重な歌声のCDは、人の声が作りだす音楽の虜になっていった時代のことを私に思い出させてくれ、恩師に再会出来たような、とても幸せな気分にさせてくれました。 


シューマン 歌曲集「詩人の恋」作品四八 

私をクラシック音楽の世界に引き入れてくれた「詩人の恋」は、ハインリッヒ・ハイネの詩に三〇才のシューマンが曲を付けた、全一六曲の歌曲集です。全体を通しての物語は無く、一曲一曲が独立した歌曲です。それにしても、ドイツ語のドの字も分からなかった高校生の私が、何故ドイツ語で歌われる歌曲集「詩人の恋」にあれほど引き込まれたのでしょうか。私は、ずっと後になって、チャールス・オスボーンの解説を読んで、その答えを見つけたように思いました。 

『・・・・詩そのものは、真の翻訳は不可能である。英語に作り直されたハイネの言葉はすでに元の白さを失っている。私達は、ナイチンゲール、ばら、夢、そして夢見る人が、どのような意的変容を経てハイネの言語となっていったかを理解することはできない。私達は、ただ、シューマンがこれらの詩を完璧に理解し、彼自身の共感と叙情的天性をそれらに重ね合わせることができたことに感謝するしかない。』(英グラモフォン BLP1064 ジャケット解説、著者訳) 

「英語」を「日本語」に置き換えて見ても、此の言葉は全く正しいと思います。歌われている詩の意味が理解できなくても、人の声とピアノの二つの楽器による音楽として、一曲毎の歌ではなく、全体が一つのかたまりとなって響いてくる音楽として、私は「詩人の恋」を受け入れていたのです。 

「詩人の恋」では、
第一曲 「美しい五月に」        
    美しい五月に花は咲き、鳥は歌う、そして私の心にも恋が芽生える。
第二曲「涙はあふれ出て」     
    涙はあふれて花になり、ため息はナイチンゲールの歌となる。   
    君が愛してくれるなら、花を捧げよう、窓辺にナイチンゲールの歌を響かせよう。

と歌われていますが、花や小鳥はこの後も次々と登場して来ます。シューマンの歌曲で、題名に小鳥の名前がついているものとしては、歌曲集「子供のための歌のアルバム」から「みみずく」、「つばめ」、七つのリートから「元気でね、燕さん」等が思い出せますが、歌詞の中に小鳥が登場する曲となると、あまりにも多すぎて列挙することなどとても出来はしません。  


シューベルト 歌曲集「白鳥の歌」から「鳩の使い」(Die Taubenpost)       

シューベルト生誕二百年の一九九七年には、世界各地で記念音楽会が開催されました。日本でも一月早々に、現代最高のバリトン歌手の一人ヘルマン・プライを迎え、シューベルトの三大歌曲集を中心とするドイツ・リートのリサイタルが開催されました。まさに円熟の極みにあったヘルマン・プライは絶品といえるシューベルトを聴かせてくれましたが、年が変わると間もなく急逝してしまいましたので、日本でのリサイタルはプライの白鳥の歌ともなってしまいました。年末近くにペーター・シュライヤーによる三大歌曲集を聴く機会にも恵まれました。これもまた最高級のシューベルトでした。CDの世界でも、内田光子やアンドラーシュ・シフの素晴らしいピアノ曲が続々発売されて、シューベルト・ファンにとっては幸せな一年でした。 

シューベルトのリートにも、もちろん沢山の小鳥達が歌われていますが、ここでは若くして亡くなったこの作曲家の最晩年の作品、「鳩の使い」だけを取り上げることに致します。 

歌曲集「白鳥の歌」(Schwanengesang)と言う名称は、ハスリンガーが、シューベルトが亡くなった年の歌曲作品から一四曲を選び、翌年「シューベルト遺稿集」として出版する際に命名したもので、もちろんその意味するところはシューベルトの辞世の作品ということです。しかし、この一四曲以外にもこの年に作曲された作品があって、この歌曲集の中の最後の歌「鳩の使い」がシューベルトの最後の作品ということにはならないようです。ではどの曲が本当の辞世作なのかというと、これを特定するのがなかなか難しいのですが、研究者の間では、歌曲「岩の上の羊飼い」(D965)を一番最後の作品であるとする意見が有力なようです。「岩の上の羊飼い」が作曲されたのも「鳩の使い」と同じ一八二八年の十月であったと考えられますので、仮に「鳩の使い」が最後の曲ではなかったとしても、作品リストの最後尾に列なる作品であることだけは間違いありません。 

歌曲集「白鳥の歌」におさめられた歌はそれぞれ独立した歌曲で、全体を通しての筋とか物語性はありません。一四曲の内、最初の七曲がレルスターブの詩、続く六曲がハイネの詩によるもので、シューベルトはここまでの一三曲を一八二八年の八月に作曲、そして最後のザイドルの詩による「鳩の使い」を同じ年の十月に作曲して、その翌月に突然他界してしまいました。直接の死因は腸チフスとされていますが、死ぬまで毎日の生活に追われていて、栄養も充分には取れておらず、体力的に消耗していて腸チフスに耐えられなかった事が本当の死因であるとされています。後には手書き原稿の他には、金も、家具も、財産も、著書も全く何も残っていませんでした。シューベルトのたぐいまれな才能は、彼の死後四〇年もたってから初めて本当の意味で評価の対象とされるようになったのです。 

幸いにも、シューベルトの創作活動を飾る最後の作品は、「鳩の使い」であれ「岩の上の羊飼い」であれ、どちらも希望に充ちた、優しい明るい曲です。 


マーラー 「子供の不思議な角笛」から「高い知性への賛歌」   

歌曲の大半は、ピアノの伴奏による声楽曲ですが、オーケストラをバックに歌われる歌曲も少なくはありません。シューベルトの歌曲も、ピアノの部分がオーケストラ用に編曲された版で演奏されることもあります。マーラーの歌曲は、オーケストラと一緒に歌われるものが多いのですが、例えば「子供の不思議な角笛」のように、管弦楽の伴奏で歌われる場合が多いものでも、オリジナルはピアノ版であったものもあります。最近になって、オリジナルのピアノの版を重視する動きも出てきて、CDにもピアノ版のものも現われ始めています。「大地の歌」にもピアノの版がありましたが、このことが広く知られるようになったのは極く最近のことで、ピアノ版「大地の歌」が初演されたのは、作曲家の死からおよそ八〇年もたってからのことでした。しかもその世界初演はこの日本で行なわれました。マーラー未亡人のアルマは、いかなる事情からかは不明ですが、未出版楽譜をアメリカの知人に譲ってしまっていたため、ピアノ版「大地の歌」はついぞ出版の機会に恵まれることがありませんでした。従って、長い間「大地の歌」にピアノ版があったことは、少数の研究者を除いては知られていませんでしたが、八〇年代も後半に入ってから、所有者の申し出でがあって、このピアノ版「大地の歌」の楽譜が実在していたことが明かになりました。これが正式にマーラーの作品として認知され、演奏の対象となるためには楽譜が出版されなければなりません。その出版の労を取ったのが、国立音楽大学理事長の海老沢敏氏でした。ピアノ版「大地の歌」の世界初演は、一九八九年五月一五日、テノールのエスタ・ヴィンベルイ、アルトのマリヤーナ・リポフシェク、ピアノのウオルフガンク・サヴァリッシュによって、国立音楽大学大ホールで行なわれました。 

全一四曲からなる「子供の不思議な角笛」は、一八九二年から約一〇年かけて、歌曲集としてまとめられ完成したのは一九〇一年ということになっておりますが、実際にはこの「子供の不思議な角笛」の各曲は、マーラーの他の曲の中に様々な形で度々顏を覗かせており、マーラーの音楽は、どれもがこの「角笛」と深い関わりを持っています。 

その中の一曲「高い知性への賛歌」は、ロバを審判に迎えて歌唱コンテストをするカッコウとナイチンゲールの物語りです。ロバを審判に選んだのは、大きな二つの耳を持ったロバのことなので、必ずや音楽の判定能力も高かろうと思ってのことでしたが、いざ終って見ると、ロバは複雑なメロディーの歌を美しい声で巧みに歌ったナイチンゲールではなく、たった二音からなる単調なメロディーをくりかえしただけのカッコウに軍配を上げました。「私の高い知性にぴったりの歌唱であった」というのがロバ審判のコメントです。マーラーは子供の歌を通して、裏付けのない権威主義を痛烈に揶揄しています。 


リヒャルト・シュトラウス 「四つの最後の歌」から「夕映えのなかで」 

リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」は、最初から女声とオーケストラの為に書かれた歌曲で、ピアノ伴奏版はありません。 

リヒャルト・シュトラウスはマーラーよりは四才年下で、十九世紀末には既に広く名前の知られた作曲家となっていましたが、長命であったこともあり、晩年はナチスに協力した芸術家の一人となりました。昭和十五年(一九四〇年)、当時の軍国日本は、日本の国歴の古さを誇示しようという意図もあって、神武天皇の即位を以て紀元元年とする、日本の皇紀による紀元二千六百年を祝賀する式典を挙行しましたが、その時に海外の著名作曲家に奉祝曲の作曲を委嘱しています。リヒャルト・シュトラウスの「祝典音楽(日本建国二六〇〇年祝典曲)作品八四」はその時の委嘱作品で、ナチスドイツの友好国であった日本の昭和天皇に捧げられました。リヒャルト・シュトラウスは、自らバイエルン国立歌劇場管弦楽団を指揮してこの曲を録音しています。皇紀二六〇〇年奉祝演奏会には、シュトラウスの他に、フランスのジャック・イベール、イタリアのイルデブラント・ピツェッティ、ハンガリーのシャンドール・ヴェレッシュ、イギリスのベンジャミン・ブリテンといった作曲家が作品を寄せていますが、ブリテンの曲は「鎮魂交響曲(シンフォニア・ダ・レクイエム)」と題されていたところから、それが天皇への意図的な侮辱であると見なされ、ブリテンは日本の政府から厳重な抗議を受ける結果となりました。もちろん奉祝演奏会での演奏も認められませんでした。この曲が日本で初演されたのは、戦争も終わってだいぶたった一九五六年のことで、作曲者自身がN響を指揮するために来日していますが、この時に日本で観たお能の「隅田川」が、ブリテンに「カリュー・リヴァー」を作曲させる動機を提供したというめぐり合わせに興味を覚えます。 

「四つの最後の歌」はリヒャルト・シュトラウスの最晩年、一九四八年の作品で、「最後の」という文字は作曲者の死後彼の友人により書き加えられたものです。タイトルの通り曲は四曲からなり、最初の「春」「九月」「眠りにつこうとして」の三つはヘッセの詩によるものですが、最後の「夕映えのなかで」はアイヒェンドルフの詩が使われています。八四才の老作曲家は、「夕映えのなかで」に描かれている、夕陽に輝く天空に舞い上り消えてゆく二羽のひばりに自分の生命を託したかのように、安らかな死と、その後の魂の平安を予感させてくれるような素晴らしい音楽をつけてくれました。この「四つの最後の歌」は、シュトラウスの死後の一九五〇年、フラグスタートの独唱、フルトヴェングラーの指揮でロンドンで初演されました。









(注1)英グラモフォン BLP1064 ジャケット解説 著者訳

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